大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第一小法廷 昭和59年(オ)1368号 判決

主文

原判決を破棄する。

被上告人らの本件控訴を棄却する。

控訴費用及び上告費用は被上告人らの負担とする。

理由

上告代理人渡部孝雄の上告理由について

一  原審の適法に確定した事実関係は、次のとおりである。

(一)  被上告人堀内宗一は第一審判決添付の一物件目録(1)記載の土地(以下「(1)の土地」という。)を、上告人はその南側に隣接する同目録(2)記載の土地(以下「(2)の土地」という。)を、それぞれ所有している。

(二)  上告人は、かねて右両土地の境界を第一審判決添付甲図面のイ、ロの各点を結んだ線であると主張していたところ、被上告人らが(1)の土地上に建物を建築しようとしたので、被上告人らに対し、右境界線から最小限五〇センチメートルの距離を置いて建築するよう申し入れた。

(三)  被上告人らは昭和五五年一月頃から建物建築工事に着手したが、基礎工事の一部が地下部分において上告人主張の右境界線より南へ侵入しており、地上の基礎部分も、東南角においてわずかに右境界線を越え、西南角では右境界線から約二五センチメートルの地点まで接近していた。

(四)  そこで、上告人は、昭和五五年七月三日、建物建築に際しては、民法二三四条により、右境界線から少なくとも五〇センチメートルの距離を保つことを要するのに、被上告人らがこれに違反して基礎工事をしており、このまま推移すると建築工事が進行してその回復が困難になることを理由に、被上告人らを相手方として、奈良地方裁判所葛城支部に対し建築工事禁止の仮処分を申請した(同庁昭和五五年(ヨ)第六〇号事件)。これに対し、被上告人らは、(1)の土地と(2)の土地との境界は前記図面のA(ロ)、Bの各点を結んだ線であると主張するとともに、同図面A、B、C、D、Aの各点を順次結んだ直線で囲まれる部分五・三五四坪は、被上告人堀内宗一が上告人から買い受けてその所有権を取得した土地であると主張して、抗争した。

(五)  昭和五五年七月一九日、右仮処分申請事件において、上告人、被上告人ら間に裁判上の和解(以下「本件和解」という。)が成立した。右和解は、右仮処分申請当時、被上告人らが既に上告人主張の境界線を若干越えて鉄骨の柱を建てており、基礎工事も完了していたことから、既存の工事部分をできるだけ壊さないで利用できるようにするとともに、右新築建物と境界線との間に、民法二三四条一項に従い、五〇センチメートルの距離を保てるようにするため、(イ) まず、(1)の土地と(2)の土地との境界がイロ線であることを確認したうえ(和解条項第一項)、(ロ) (1)の土地の一部である前記図面イ、3、1、ロ、イの各点を順次結んだ直線で囲まれる部分と(2)の土地の一部である同図面ロ、7、8、い、ロの各点を順次結んだ直線で囲まれる部分とを等価交換し(同第二項ないし第五項)、(ハ) 被上告人らは上告人に対し、解決金として一二〇万円を支払い(同第六項)、(ニ) 被上告人らは上告人に対し、同図面4、6の各点を結んだ線(新たに設定された境界である同図面1、3の各点を結んだ線から北へ五〇センチメートル離れた線)より南側に突出している構築物を、同年八月二〇日限り、被上告人らの負担において撤去すること(同第八項。以下、同項を「本件和解条項」という。)を内容とするものである。

(六)  しかるに、被上告人らは、本件和解条項所定の期限である昭和五五年八月二〇日を経過しても右構築物を撤去しようとせず、かえつて右4、6線を越えて建物の建築を続行した。そこで、上告人は被上告人らに対し、同年九月五日到着の内容証明郵便をもつて、右構築物を一週間以内に撤去するよう求めるとともに、右建築工事続行に抗議したが、被上告人らはこれに応じようとせず、結局同年末頃までに一棟三戸建て鉄骨造の建物(以下「本件建物」という。)が完成するに至つた(なお、記録によれば、上告人は、同年九月一六日、奈良地方裁判所葛城支部に対し、本件和解条項につき執行文の付与を申請し、その付与を得たが、被上告人らは、右同日、同裁判所に本件訴訟を提起するとともに、強制執行停止の申立をし、同裁判所は翌一七日強制執行停止決定をみたことが認められる。)。このため、本件建物の一部すなわち一棟三戸建ての各戸を区切るためのブロック塀、風呂場(風呂釜と炊口の設置物)、二階のベランダ(物干場兼用)が、前記4、6線を越えてその南側に設置されるに至つている(以下、右各物件のうち4、6線の南側にある部分を、「本件物件」という。)。

二  原審は、本件和解条項について執行力の排除を求める被上告人らの本件請求につき、(イ) 本件和解は(2)の土地の所有者について錯誤があつたから無効である、(ロ) 本件和解条項は、その表示する各地点(前記4点、6点)が特定不能であるため、全体として無効である、との被上告人らの異議事由はこれを排斥したが、大要次のとおり判示して、上告人が本件和解条項に基づき本件物件の撤去を求めることは権利の濫用であつて許されないとの異議事由を採用し、被上告人らの請求を認容した。

(一)  被上告人堀内宗一所有の(1)の土地は都市計画法上の商業地域、準防火地域に属し、その地上にある本件建物の外壁は耐火構造になつているから、同建物については民法二三四条一項の適用がなく、特別法である建築基準法六五条により、その外壁を隣地境界線に接して設けることが許される。

(二)  被上告人らは、建築基準法に関する知識に乏しく、上告人の主張するままに、本件建物に民法二三四条一項の適用ないし類推適用があるものと誤解して、本件和解をしたものと推認されるところ、この点の錯誤は、意思表示の動機の錯誤にすぎないから、和解を無効ならしめるものではないが、かかる誤解に基づいてされた約定の履行に関しては、同時に同条二項の法意をも斟酌するのでなければ衡平を失する。

(三)  これを本件についてみると、(イ) 被上告人らは、本件和解により土地を交換したうえに上告人に対し解決金として一二〇万円を支払つたが、本件和解条項については、一方的に民法二三四条一項に従うというだけで、対価関係に立つような特別の事情がなかつた、(ロ) 被上告人らは、建築工事を大工に一任していたため本件物件が本件和解条項に違反していることに気付かないまま本件建物を竣工させたが、その結果、(2)の土地に対し日照、通風の妨害など相隣関係を害する効果は全く生じていない、(ハ) 本件和解条項の定めるとおり本件物件を撤去するには莫大な費用を要するばかりでなく、借家人の居住する本件建物の使用に重大な支障を生ずるのに対し、上告人や(2)の土地には格別な利益をもたらすものではない。

(四)  右のような事情に照らすと、本件建物の竣成後に本件和解条項の履行を求める上告人の請求は、権利の濫用に当たるものとして許されず、民法二三四条二項の趣旨に則り、単に損害賠償の請求ができるにとどまるというべきである。

三  しかしながら、原審の右判断は到底是認することができない。その理由は、次のとおりである。

(一)  確定判決、裁判上の和解調書等の債務名義に基づく強制執行が権利の濫用と認められるためには、当該債務名義の性質、右債務名義により執行し得るものとして確定された権利の性質・内容、右債務名義成立の経緯及び債務名義成立後強制執行に至るまでの事情、強制執行が当事者に及ぼす影響等諸般の事情を総合して、債権者の強制執行が、著しく信義誠実の原則に反し、正当な権利行使の名に値しないほど不当なものと認められる場合であることを要するものと解するのが相当である。

(二)  これを本件についてみるに、本件和解の趣旨・目的は、前記仮処分申請当時、被上告人らが建築工事中の建物の鉄骨の柱が既に上告人主張の境界線を若干越えており、基礎工事も完了していたことから、既存の工事部分をできるだけ壊さないで利用できるようにするとともに、右建物と境界線との間に、民法二三四条一項に従い、五〇センチメートルの距離を保てるようにするため、(1)の土地の一部と(2)の土地の一部との等価交換により形成された前示1、3線をもつて上告人所有地と被上告人堀内宗一所有地との境界とすることを確認するとともに、被上告人らは上告人に対し、右1、3線から五〇センチメートルの間隔を置いた前示4、6線の南側には建物を建築しないことを約するにあり、そのために、和解成立当時既に右4、6線を越えて設置されていた構築物を被上告人らの費用負担において昭和五五年八月二〇日限り撤去するものとしたのが本件和解条項であることが明らかである。そうとすれば、被上告人らが本件和解成立後右4、6線を越えて建物の建築を続行し、これを完成させるに至つたことは、明らかに本件和解の約旨に反するというべきであり、上告人が本件和解条項に基づき本件物件の撤去を求めることは、まさに正当な権利の行使であつて、何ら権利の濫用に当たるものではないというべきである。被上告人らのかかる行為が容認されるとすれば、本件和解を成立させた趣旨が達成されないばかりでなく、ひいては裁判上の和解に対する信頼を害する結果を招来することになり、相当でないといわなければならない。

(三)  原審は、本件係争地が準防火地域に属し、本件建物の外壁が耐火構造であることから、本件建物については民法二三四条一項の適用がなく、建築基準法六五条によりその外壁を隣地境界線に接して設けることができるのに、被上告人らは、その点の理解に欠けたため、民法二三四条一項の適用があるものと誤信して、本件和解を成立させたものであつて、その錯誤は本件和解を無効たらしめるものではないが、その履行に関してはこの点を重視すべきであり、同時に同条二項の法意をも斟酌すべきである旨説示している。しかし、本件においては、被上告人らが上告人に対し前示4、6線の南側にある構築物を撤去することを約した本件和解条項について、その執行力が排除されるかどうかが問われているのであつて、原判決のような見解に立つて被上告人らに本件和解条項を履行する義務がないとすることは、本件和解条項が最初から無効であることを認めるに等しく、法律の適用に関する被上告人らの錯誤が本件和解を無効たらしめるものではないとの原判決の説示と相容れないというべきである。また、民法二三四条二項の法意を斟酌すべきであるとの原判決の趣旨は必ずしも明確でないが、被上告人らにおいて本件建物を竣成させたという既成事実を重視すべきであるとの見解に立つているものとすれば、これまた失当であるというほかはない。けだし、前記のような本件和解成立の経緯や上告人が被上告人らに対し内容証明郵便をもつて本件和解条項の履行を求めるとともに被上告人らの建築工事続行に抗議していた事実に照らすと、被上告人らは、本件和解条項に違反して建物を建築した場合、本件和解条項に基づき違反部分の撤去を余儀なくされることを十分予想していたとみるべきで、その危険を負担すべき立場にあるというべきであるからである。

四  そうとすれば、本件和解条項に基づく強制執行が権利の濫用に当たるとした原審の判断には、法令の解釈適用を誤つた違法があるというべきであり、右違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、以上によれば、被上告人らの本件請求は理由がないから、これを棄却した第一審判決は相当であり、被上告人らの本件控訴は棄却を免れない。

よつて、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 高島益郎 裁判官 角田禮次郎 裁判官 大内恒夫 裁判官 佐藤哲郎 裁判官 四ツ谷 厳)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例